· 

美しきもの

本日二回目のブログ更新です。(過去記事の掲載ではありません)

 

マト♂です。

美しきものというと何を思い浮かべるでしょう?風景、建物、彫刻、絵画・・・ 

中には何も思い浮かばないという人もいるかもしれません。 

今、私たちは大きな分岐点を迎えていて、自分がどのような状態であるかを様々な自己診断で把握していくことが重要です。その中で自分の「美しきもの」を認識していくことは一つの大切なステップだと思うのです。 

昨今テレビの世界は私から見るとお笑い芸人に蹂躙されています。まあ笑いは悪いとは言いませんが、馬鹿笑い、高笑いは決して波動が高いものではなく、いわゆるお笑いはそういった類に入るものが多いと感じます。さらにはありとあらゆるものを正面からとらえずにひっくり返してさげすもうとする、これはどうも個人的にいたたまれません。 
まあそれを流行らせているのはYOSIMOTOやDENTU、さらにはその裏側に暗躍する闇なのですが、それを見事に受け入れてしまう国民性がちょっと悲しくもなります。もともとは美しき国の住人たちが、美しきものから遠ざけられてしまい、そのことにすら気付かないのかもしれません。余談になりますが、精神世界にもDENTUは影響を与えようとしていて、かつてDENTUから「派遣された」指導者とやりとりした際に、最終的に「自分は本当はこの分野は詳しくないので」と本音を見せられたことがありましたよ。 

比較的真面目な視聴者をターゲットにしたドラマなどでも巧妙に文化的破壊が組み込まれだしたと感じる演出がありました。科学捜査を題材にした番組でヒロインが絵を見せられて何に見えますか?と聞かれ、「こぼれた絵具」と答えたり、捜査のために壁に描かれた絵画を平気で剥離したり。素人の私でさえ同じ分析捜査を依頼されたらまずは赤外光を用いた非破壊検査から始めると思いますよ。今の科学技術を持ってすれば、表面からミクロン単位で内層の元素分析も可能なはずですから。 

さて、私はもともと美しきものが大好きというか、本能的に突き動かされます。そして自分が興味、関心を持ったものを振り返ってみると、そこにはまた大いなる流れがあるのです。例えば文明社会の象徴ともいえる車を見るとき、明らかに大多数の人とは趣向が異なります。私は便利さや快適さの前に、外観のデザイン、機能美、コンセプトなどに目が行きます。これは別の言い方をすれば、文明よりも文化に惹かれるのです。スマートフォンやタブレット、PCでさえデザイン、機能美優先は徹底しています。さらには人工物よりも自然美、例えば水晶の原石などにたまらない美しさを感じます。 
「美しいもの」という言葉からは普通目に見えるものを連想するでしょう。しかし私はそうではないものに多くの美を見いだします。まあこれは私に限らず感覚の優れた人たちに共通することでしょうが、例えば「美しい音楽」「美しい味」「美しい香り」といったようにまずは五感の全てで美しさを享受します。それらは形として見えない分、より深い美しさを演出してくれるのです。 

これがもう少し進みますと、「美しい心」が何よりもいいですね。それは単調ではありえず、深みある人生経験がひだのように文様を刻み、何一つ隠す必要のない純粋で透明感溢れる、人としての最高の造形となるのです。それに触れたとき、喜びと深い感動で至福に満たされます。 


ではさらに美しいものがあるかというと、これが私にはあるのです。それは「真実」です。私の生まれてきた目的の一つが真実の探求であることはもう疑う余地もなく、まさに最高のライフワークです。しかしながら人間社会おいては皮肉なことに真実は邪魔な厄介者で、封印され続ける風習があります。なので私は明らかにした真実を声高らかに吹聴することはしません。自分の中に、あるいはパートナーとの共有財産として、大切に保管しています。 

事実を真実と混同されている方がいるかもしれませんが、真実とは事実のその先にあり、根底の脈流に繋がるものなのです。例えば体が不調になった時に、お医者さんが告げてくれる病名などは「事実」です。そしてそれに都度対処して良しとします。真実とは何故そのような病気になったのかという裏側に潜むことであり、それを解明してしまうと病気そのものがその人の人生から消失してしまうのです。 

ここまで読まれて、真実を知るにはどうすれば?と興味を持たれる方がいるかもしれませんね。これは慣れてくると簡単なのですが、最初は難しいですね。誰かが教えてくれることはまずありません。世の常識の9割以上は真実の欠片もありません。真実を知るためのツールは二つ、直感というインスピレーションと、シンクロニシティという方位磁石を頼りに霧の中を歩き進むしかないのです。何より邪魔するのは、「そんなこと知ったところで何の得にもならない」という自分自身の声です。私が時折口にしている価値観の変容、転換とは実のところこれを指しているのですね。