マトがmixiへ投稿した過去の記事を掲載します。
(主要な部分を抜粋し、一部省略しています)
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【2009年3月26日 欲とは何か・・・】
スピリチュアルな道を歩もうとする時、「欲」に対する概念は一つの関所となります。
従来の宗教では過度の「欲」を卑しいものとしているためか、身の程にあった最低限のもの意外は欲するなと説いているケースが多いようです。
何事も経験の上で語りたい私は、まず「欲」を排除した時にどういう状態になるのかを体験してきました。物欲・金欲・名声欲に留まらず、性欲・食欲までコントロールしました。性欲は禁欲ということで分かると思いますが、食欲はある日を境に肉・魚・卵・乳製品を一切摂らないこと、そして食事の量や回数も減じて軽い断食までを含めての体験です。さらには嗜好品を全て禁じました。
すると心の垢が一気に取れたような感覚となり、必要なものや出来事が次々とやってきました。
それまでの生活が序章であり、これからが人生の本番であるような「目覚めた」感覚です。
もともとヨガの探求に於いて始めた「欲」の排除でしたが、その結果としてアセンションを始めとする情報がやってきて、傍から見たらスピリチュアルな傾向を帯びてきたように思います。(自分では未だにスピリチュアルな人間だとは思っていません^^)
ですので私にとっては必要な経験であった訳です。
もともと理論好き、理屈好きの頑固者が、愛に目覚めた感覚派アーティストに転身するほどの体験ですから、今現在自分を認識出来ずにいる多くの人たちには一度お勧めかもしれません^^
それで私は「欲」自体が不要のものだと思いました。
私のヨガ・瞑想の師であるサカモト先生は「欲がなくなったら生きる意欲まで失くす」と言っていたので、その点で相容れませんでした。
それほど「欲」を否定していたのです。
さて、では今はどう感じるか・・・
「欲」は「谷」と「欠」ですね。つまり欠けた谷間を埋めようとするものです。
人間の本質がエネルギー体であり、完全に調和のとれた状態を球体とみれば、その球体になるために谷間を埋めていくのが「欲」であるとみなすことが出来ます。
球体になるために凹凸の凸を削っていくという考え方もあります。「魂を磨く」と言った表現は魂を完全なる球体とイメージし、余分な付着物である凸を取っていくということですね。
宗教で言うところの禁欲はこれにあたります。
その逆に凹を埋めて完全なる球体にしようというのが本来の「欲」だと感じます。
削るのではなく大きくする成長です。
表現を変えれば、私たちの本質であるエネルギーは3次元の学びの場において常に不調和を含む訳ですが、不調和を排除して調和を目指すか、不調和に新たな補充をしてより大きな調和とするかという事になります。
ですから「欲」は私たちにとって不要なものとみなすことも出来れば、成長のために必要なものとみなすこともできるのです。
成長に必要な糧であるとみなせば、「欲」は「善く」となりますね。
さて、では欲望のままに生きる事がいいのだ!と解釈する人がいるかもしれません。
それはそれで選択の一つでしょう。
しかし私の表現をもう一度よく噛み砕いて頂きたいのは、「エネルギーの不調和に新たな補充をして調和」させるのが本当の欲なのです。
エネルギーの本質は「愛」です。
自分の欲が「愛」あるものであるか、それが「善く」の見極めですね。
「愛ある方へ」
私がマイミクさんに頂いた選択の道標は、成長のための「欲」の道標でもあります^^
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