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祖父の記録(2009)

まど♀です。

前回、マトのお祖父さんが白蛇と出会い、その地に弁才天のお宮を建てたというお話をしました。

今日はそのお話を掲載します。

 

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【2009年8月8日 祖父の記録】(mixiのマトの日記より)

 

先週の日曜日 

祖父の27回忌と祖母の17回忌を併せて行いました。 

供養の最中には悦びと浄化の雨が降り注いでいました・・・ 

祖父は柔術の免許皆伝を持つ修験者でありましたが、若い頃、浦安にある今の清瀧弁財天を興しました。生前にその経緯をまとめていたのですが、長い間記録が行方知れずとなり、市が清瀧弁財天に石碑を建てた際にも恐らくその書物を参考にすることはなかったと思います。 


ところが今回の法事を前にして、弁財天に関する祖父の口述筆記と、続けて直筆の記録が実家で見つかりました。 

弁財天と白蛇の謂れをここに記します。 

 

生身蛇形弁財天(現 清瀧弁財天)の始まり 

 始めに私の家の稼業について申し述べておきます。 

 私の家は春先から秋までは農業を営み、晩秋から春4月頃までは海苔製造業者から依託されて東京日本橋室町1丁目にある乾海苔問屋「梅」こと山本徳次郎商店、その筋向いにある「山形屋」こと窪田惣八商店、また日本橋通り4丁目にある井上吉太郎商店、京橋際にある大塚寅吉商店、その他2、3の乾海苔問屋へ依託された乾海苔を運搬するため、毎日午前2時から2時30分頃に起きて、浦安から日本橋まで和船で通いました。 

 月の内に2回、潮合いという休日がありました。この日は潮が引かず生海苔を採ることが出来ないので休日となっておりました。この休日を利用して製造家より依託販売された海苔代金を各問屋から集金して、午前12時頃までに浦安の家に持ち帰り、各製造家に配分して終りにする慣わしになっておりました。 

 偶々 明治44年3月12日の勘定日に、いつものように父と私と二人で各問屋に海苔代金を貰いに行きましたが、この日は問屋で余分な用件があって帰宅時間が送れ、午後4時30分頃になりました。父の言うのには「今日は時間が遅いから明日にしろ」と。でも私は何だか気になるので、私一人で全額の約半分ほど製造家に配分し、終わったら午後9時30分頃になってしまいましたので、その残りを白い胴巻に入れ、父に渡して一安心致しました。 

 それからその頃、半ば強制的に義務付けられていた消防手の結所(若い衆宿)に行き、仲間2、3人と一杯酌み交わし、炬燵の中に足を入れたまま眠ってしまいました。酔い潰れて翌朝6時前 目覚めて私の家に帰ってみると、皆の様子が何だか変なので理由を聴いてみると、父が枕の下に入れておいて眠っていた胴巻が何者かに盗まれてしまったとの事です。私はそれを聴くと、がっかりして何をする気にもなりませんでした。 

 その後、警察の調べがあって、家内の者に疑いが掛けられ、結局父母の二人が話し合いでやった事だろうと二人が怪しまれるようになってしまいました。母はそれが原因で気が変になり、白い袋を掴んで金を見つけたと喜び出す始末。私は母の気持ちを治したいと思って、東京中橋まで「血の道の薬」(中将湯)を買いに行き、母に飲ませました。 

 一週間程して母の気持ちも落ち着きましたので、それから色々の行者に盗人はどの方角の者かを知りたく、お伺いをたててもらいました。最後にお願いしたのが導了様の行者。この人の言うのには「これは水の近くに住む女、北の方角に当たるもの。そしてその入れ物、四つ足のついた高い所にある」と申されました。それに基づいて家の中の高い所を隈なく探したがその気配なく、数日後、弟越氏が便所に行ってその胴巻を見つけ出し、急いで警察に届け、警察官立会いで胴巻の中を調べましたが金銭は紛失して中には何も入っておりませんでした。 

 お得意様に支払う金は、私共の本家 斉藤庄兵衛氏の御厚志により、その所有田地二反余りを担保として乾海苔問屋「梅」山本徳次郎商店、「山形屋」窪田惣八商店方より借金して支払いを済ませました。 

 4月になって農業も始まり、田植えも終わって6月に入りましたが、一日として盗人のことは忘れる事が出来ず、一日も早く盗人が捕まるようにと神様にお願いしておりました。田の草採りの時期になり、同時に追い肥の時期にもなったので、田の追い肥用として海へオサ蟹を取りに行こうと思いましたが、いつもは独りで行くのですが何となく恐怖心が起こり独りで行く気になれず、相手を探したけれど見当たらないので、本家 斉藤庄兵衛方に年季奉公している内田秋造氏を誘ったところ、「俺はこれから米を5俵搗かなければならないので行かれない」と断られましたので、「それでは俺が手伝うから終わり次第に行こう」と約束し、10日、11日、12日と米搗きを手伝い、12日の夕方に終わったので翌13日は一日蟹取りの仕度を致しました。6月14日、朝早く二人で出掛けました。 

 この時期は梅雨期だったので四方が薄暗く気味の悪い日でありました。海に出て蟹取りを済ませて帰宅途中、道を間違えて笹薮の中に迷い込み、出た所が現在弁天様の奉ってある場所なのです。ここは当時蓮田で、その田の中央に私たちが「塚」と呼んでいた、10坪ばかりの小高い丘があり、中央に松の木が4本(以前は5本あったとの事)生えて居りました。その塚も人間の背より高い笹が一面に生い茂って居りました。一番端の松の木の根っこの下に小さな洞穴のような穴がありました。その穴から白いものが西の方へ走って行ったかと思ったら、すぐに畔道をぐるりと廻ってきて元の穴に入って行きます。二人で覗きますと、白い蛇が一尺ばかり尾を出して穴へ入りかけて居ります。 

「白蛇だ、弁天様のお使い姫だ」 

と私はすぐに感じました。この時、此処にお宮を建ててお祈りしたら盗人が早く逮捕されるのではないかと思いながら家に帰りました。早速 大六天様の行者、高石光司先達にお伺い願ったところ、「今日二人にお姿を見せたのは、此処に雨除け用としてお宮を建ててもらいたくてお姿を現したのだ。今まで何人かの人にもそれとなくお願いに出たのだが誰も気付いてくれないので、今日お願いに出たのだ」とのお言葉でした。早速地主宝城院に行きお話ししたところ、「あの田は勿体無い田で、誰が作っても3年と続ける者がいないのでお寺でも困っている。お前たちにやってしまうから、お宮を建ててくれ」と快くその田を提供してくれました。そして宝城院の住職が「生身蛇形弁財天」と命名してくれました。 

 地主の宝城院は承知してくれましたが、蓮を作っている小作人が居りますので、その人の承諾を得なければと思い、住職に尋ねたところ猫実のこうやの長屋に居る九十九里の爺さんだとの事で、その親父さんに会いお話ししたところ、「来年はあの田は作らない。あの蓮はお前たちにやってしまうからお宮を建ててやってくれ」と気持ちよく承知してくれました。早速、堀江の弁天市という大工の家に行き、お宮を注文したところ、「他の仕事があって忙しくて昼間はやっていられないから夜業に造ります」と言うのでお願いして帰宅しました。2、3日して行って見ると造っている様子がないので、出来るだけ早く頼むと言って別れました。その後訪ねたところ、一生懸命お宮を造っているので、その訳を聞くと、「昨夜、伜が熱を出して、弁天様のお宮を早く造ってくれと譫語を言うのでビックリして他の仕事を一時断ってお宮を造り始めました」と大工は言っておりました。 

 大体の見通しがついたので、お祀りの準備にかかりました。田の畔道から塚まで橋を架けるため、葛西の三角という所へ行き、二間物2枚、九尺物1枚の背板を買い求め、橋を架けました。6月26日、内田秋造氏に鎌を渡して塚の清掃笹刈りを頼みましたところ、間もなく秋造氏が顔色を蒼白になって私の所へ逃げて来ました。どうしたと聞くと、「白蛇の出た洞穴附近の笹を刈り始めたが、手が痺れてどうしても刈る事が出来ない」と言うので、私がその鎌を受け取って塚の笹刈り清掃を終わりました。 

 6月27日、お宮が完成致しましたので、28日、お宮を安置してお祀り致しました。 

 この時、堀江の権十郎どんの主人、折本新造さんが初詣りしてくれまして、当時のお金5厘をお賽銭としてあげて頂きました。 

 その日から私は家の石油を無断で持ち出しては夜遅くまでお燈明をあげておりました。昼は田圃の仕事をして、夜は遅くまでお宮をお守りして居りました。 

 明治44年の津波で弁天様のお宮が流され、南行徳の大六天様の境内に流れついたとの知らせがありましたので、私の従兄弟の関根忠次郎氏と二人で南行徳の大六天様へ行きましたところ、先方の話では流れ着いたお宮の上に白蛇が乗っていたので弁天様のお宮であるという事が分かったとの事でした。先方では始めは疑ってすぐに渡してくれませんでしたが、私の言葉とお宮の中の供え物と合致したので漸く納得して渡してくれました。 

 お宮を二人でリヤカーに乗せて浦安に帰り、元の場所へ安置致しました。 

その頃から弁天様の霊験は顕著となり、近郷近在はおろか遠隔の地まで有名となり、全国各地に弁天様の講が組織され、参拝人が激増致しました。参道や弁天様の通りには数十軒の土産物を売る店、料理飲食店が軒を列ね、境内は参詣人で大賑いでした。 


 大正2年、今迄のお宮を奥の院として拝殿を新築致しました。ところが大正6年の大津波で奥の院のお宮、拝殿をはじめ、料理飲食店、土産物店は殆ど流失してしまいました。それまでは弁天様の管理は地主である宝城院がやっておりましたが、大津波以来放棄してしまいました。信者の人達がお宮のない元の位置に参拝に来ますので、私が主体となって大正11年お宮再建の計畫をたて、平川総吉、別所虎之助、その他2、3の世話人と協力してお宮を注文致しましたが、大正12年9月の関東大震災に会い中止するのやむなきに至りました。 

 大震災の後片付けが終り、大正13年お宮を再建する事が出来ました。それ以来私が管理しておりましたが、当時の神主岡崎光蔵氏から「商工会で外貨獲得のため弁天様の管理をやりたがっているから任せてもらいたい」と再三再四申し入れがありましたが、頑として受付けませんでした。でも余りの熱心さについに折れて、平川、別所の両氏に代表になってもらい、昭和11年9月商工会に管理を引継ぎ致しました。 

一、 京都大本山醍醐派第一号より先の稱号を授けられました 

   補先達  町山秀利 

   補大先達 町山宗司 


昭和56年3月 町山利郎氏の口述により醍醐正雄之を記録す 


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これを記録した時、祖父は89才でした。そしてこの2年後に91才で他界いたしました。 

この詳細な記憶には驚くべきものがあります。 



この書に添えるアートを描きましたが、何故かモノトーンとなりました。(描き終えるまで色が付いていないことに気が付きませんでした!) 

祖父をお守り下さった弁天様に捧げる「マイ・サラスバティ」です。 

 

 

 

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転載は以上です。

 

私が読んでいて驚いたのは、元は『蓮田だった』というところです。

弁才天=サラスヴァティ

サラスヴァティといえば蓮ですからね♪

清瀧弁財天、現在はこんな感じです^-^